2017年08月19日

8.18

自転車のブレーキの効きが悪い。路面が濡れているせいだろうか。
仕事の合間に、興が乗り久しぶりにがっちりとした講義調の授業の用意。日本の仏教史について不明瞭な点があったので、Wikipediaで確認していたらキメラ=アントの生態について新事実を知る。雌雄同体だったんだ、と驚きつつあの繁殖方法なら思いつつそりゃそうか。
帰りに本屋で新学期の問題集の選定までしてしまい、なんだか今日一日、善良な塾講師で終わるのが嫌で、エロ本でも買ってやろうかと思うが買わない。
部屋が蒸し暑い。窓を開けると隣室のエアコンの室外機の音が耳障りだ。

posted by 淺越岳人 at 01:44| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月15日

自作解題と反省:『ゾンビの伝来と戦国時代』

塾講師として働き始めてもう10年以上になる。実は芝居のキャリアと同じであり、つまりアガリスクの旗揚げからと同じ年月、勤めていることになる。主に中学生に社会科を教えているのだが、そこで一度、絶対にやっちゃいけないからこそやってみたかったことがある。
それが「ウソを教える」ことだった。
それなりにキャリアもあるので、基本的にはおれの言ったことを生徒たちは素直に聞く。「ここが試験に出る」「これはこう解く」、もちろんそういう仕事なのだが、「先生の言ったことが正しい」というおよそ学問的ではない姿勢を強要している気もして、なんというか居心地が悪くなっていった。こと歴史なんていうのは教科書に載っていようがどの研究者が書こうが、全て"蓋然性の高い仮説"に過ぎない。もっとももっともらしい(最近この表現が気に入っている)と著者が思うもの(または都合がいいもの)でしかない、というのはアイロニーでもなんでもなく、そういうものなのだ。そういういくつもの「史実」のなかから自分なりの「史観」をもって選び取る作業が、たぶん歴史を学ぶということなのだ。
そして、だから、歴史は面白い。
そんなことを思っていても、やはりテストに出ることをテストに出るように教えることで飯を食っているわけで、そして自分なりの「史観」などというものは当然試験には出ない。教えるだけムダである。しかし「教える」という行為に慣れ、ムダを削って最適化された授業がそれなりにできるようになってきた今、なにか違和感のようなものがあるのだ。
ムダなことを教えたい。トリビアとか裏話よりもっと役に立たない、授業を受けたものに何も与えないようなことを教えてみたい。事実の積み重ねが歴史なら、ウソの積み重ねで歴史を物語ってやる。
そこから、「架空の歴史授業の形式でのひとり芝居」というアイディアは生まれた。
しかしアイディアとしてはずっと抱えていたものの、具体的に何をどう扱い、どう観せるかについてはボンヤリとしたままだった。
そんな中、冨坂に「これ出てみれば」と紹介されたのが『INDEPENDNT:17』のトライアルだった。ところでなぜ大阪の大会を勧められたのだろうか。

人はやはり、〆切がないと書かない。
「戦国時代×ゾンビ」という大元の設定は『戦国ゾンビ』という漫画を読んだときの期待感と不満から。
「架空の歴史を『歴史』として物語る」という手法については筒井康隆の『虚構船団』の第2部やケン・リュウの『太平洋横断トンネル小史』から。
「刀がゾンビに有効」という設定は伊藤計劃の遺稿を円城塔が引き継いだ『屍者の帝国』から。
「鉄砲をゾンビに置き換える」たぶんこれはオリジナルのアイディア。オリジナルゆえなんで思いついたか解らない。
そうやって今までに読んだ/観た「戦国時代もの」と「ゾンビもの」の知識を総動員して、それをSFから学んだ「強いリアリティのある強いフィクション」の描き方で書こう、、、としたが果てしなく難航。
話し言葉で書けないのである。いわゆる「教科書を音読するだけの授業」になってしまう。書いたものを読んでも、非常に喋りづらい。自分の書いたテキストなのに。「これ、このまま文章として発表した方が面白いんじゃないか?芝居にする必要あるのか?」と行き詰まる。
そこで試したのが、山川出版の『日本史』の「鉄砲伝来」の項そのものの改変。「鉄砲」という単語をすべて「ゾンビ」に置換して、それをもとにレジュメを作成。台本がわりにレジュメを見ながら講義してみて、それを録音。文字起こししたものをブラッシュアップして台本にした。
何度手間かとも思うが、これによって自分の講義のリズムを崩さないまま、テキスト化できたと思う。この台本を運営に提出したものの、読んでみたら最初20分以上あって、5分削ったときには原型を留めていなかったが。
できればいつものように(仕事のときも舞台に立つときも、だ)ホワイトボードを使用したかったが、さすがに大阪まで持っていくことは断念。レジュメを配布しようかとも思ったが、大会のレギュレーション的に断念。結果的に、手ぶらでフラッと舞台に上がり喋るだけ喋る、という極めてミニマルなひとり芝居になった。これならどこでも、いつでも演れる。そういう「持ちネタ」みたいな作品が好きなので、非常に気に入っている。
このミニマルに、という部分は作る際も意識していて、「ゾンビ」という誰がどう聞いてもフィクションだとわかる「大きなウソ」がある以上、他でウソをつきたくなかった。何かを「見立て」たり架空の誰かとの「会話」をしたくなかった。あくまで語りかける相手は「観客」でなければならなかった。「大きなフィクションはひとつ」、限られた短い時間で物語を構築するのであれば、鉄則だと思う。それを脚本レベルだけでなく、演出レベルでも徹底したかった。
第一、そういう「演劇的な処理」は苦手なので。「巧さ」で言ったらおれはとても太刀打ちできない。だからそこに評価軸があるような戦い方はハナから狙っていない。誰にも強いられず、自由にやれるからには、自分の思う自分の武器を徹底的に突き詰めた作品を作らなければならない。じゃなきゃ到底勝てない。
そう、勝つことが念頭にあった。だから、ちゃんと作品として「見世物」になったのだろう。勝利を目指すから、敗けたくないから、評価して欲しいから、そこにストラテジーが産まれる。勝ち筋を定め、そこへの最適化を行う。だから主張や思想より、まずエンターテイメントとして成立させることが前面に来る。
たぶん『INDEPENDNT:17』トライアルが、競作イベントでなかったら、あそこまでルールが徹底され順位が決まるものでなかったら、あそこまで作品を作り込むところまで行かなかったんじゃないかな、という思いがある。
おれは行動原理の大部分が「劣等感」である。
自作と言ったって、アイディアから手法からすべて先行作品からの借り物である。
自演と言ったって、一つか二つくらいしか芝居のパターンを持っていない。
でも敗けたくない。悔しいのは厭だ。「劣等感」がルサンチマンを産み出す。だったら、その手持のカードで勝てるよう、頭を使うしかないじゃないか。それがK.U.F.U.じゃないか。
そして、ひとりでの創作はやはり孤独だった。本当に稽古もひとりでやっていたので、当日のリハーサルが世界で初めてこの作品を他人に観せた瞬間だったくらいだ。
でも孤独だったからこそ、この作品は「おれの作品だ」と、胸を張って言える。これで獲った笑い声は、どこまでもどこまでも、おれのものだ。そこでの失敗も成功も全ておれの所為で、それがまとめてとても気持良かった。
三次審査、中盤で中弛みの時間ができてしまった(これが大きな敗因だと思っている)。なんとかしなきゃな、と思いながら進行させるも一度客席の集中力を手放すと回復させるのは難しい。時間だけが経っていく。
そのとき、アドリブの小ネタを思いつく。ああ、たぶんウケるな、と思う。決断とかじゃなく、自然に口から出た。
結果として、その日一番のウケ。「客席を読む」自分の能力と反射神経にガッツポーズ、と同時に前もって組み立てたネタで獲れなかった悔しさ。
それ自体の功罪は悩むところだけど、でも事実として、他人の本じゃこんな冒険には出られなかったな、と思う。なにか他に頼るものがあったら、踏み切れなかったと思う。変化が、そこにあった。大げさに言えば、ちょっとだけ「覚醒」したくらいの、大きな変化があった。
勝とうが敗けようが得るものはあって、だから何を得ようがそれは敗けを肯定するものではない。そうやって勝負を薄める行為は詮無いどころか、少なからず応援される身として、やってはいけないことだと思っている。だからこそ、次の勝ちに向かうための反省として。

『ゾンビの伝来と戦国時代』を作れて良かった。演れて良かった。また演りたい。演る。








posted by 淺越岳人 at 17:44| Comment(0) | 芝居 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月21日

共謀の野望

中学の時だったか、親にせがんで分厚い(その分値も張ったと思う)東宝怪獣の設定資料集を買ってもらった。ミニチュアの製造法やらヘドラの初期コンセプトデザイン画やらヤマタノオロチの首の操演方法などをその本で知った。「神は細部に宿る」という至言もそこで知った。
それまでぼんやりと観ていた怪獣映画に、途轍もない工夫(K.U.F.U.)そして思想が存在することに驚愕し、そこから更に一段階面倒臭いオタクになっていったのだ。
また、好きな映画のコメンタリーやメイキングなどは何度も繰り返し観てしまう。ディズニーやピクサーのメイキングなどは勉強になるうえに思想や姿勢の面で襟を正されるし、宮崎駿のドキュメンタリーは観るたびにその人間臭さに腹を抱えて笑うし、そこに現れる創作者のエゴやプライドは、ときに映画本編よりドラマティックであるのだ。

ひとつの作品が完成するまでに、途方もない「選ばれなかったルート」がある。「使われなかったアイディア」がある。それこそ、並行世界が収束するように、本来それらは存在しなかったのと変わらないものだ。作品は作品で完結すべき、そうならば埋もれていればいいのかも知れない。
そして、「選ばれなかった」理由は、決してポジティヴなものばかりではない。予算、納期、道徳や倫理や忖度。それらを明示するということは、単なるエクスキューズなのかもしれない。言い訳、それは創作者として格好悪いのかも知れない。

しかし、良くも悪くも我々はインディペンデントで、インディーズで、そんな格好の良い"創作"などできやしない。芸術的(アーティスティック)というより人工的(アーティフィシャル)に、狙い、企み、企て組み立てるのがアガリスクエンターテイメントだ。造り手と観客の距離はまだまだ近い。だからこそ、できることがある。

しっかりとした思想と戦略があれば、"企画"は立派なエンターテイメントたり得る。
少なくとも、おれが好きで、楽しんできた設定資料集はメイキングは、充分に魅力的だった。

おれは、演劇をオープンソースにしたいのだ。

表現が天才のもので、他者から理解されない"魔術"だった時代は終わったよ。エンターテイメントは再現と再構成が可能な"設計物"で、そしてその造る姿自体が既にエンターテイメントで、でも手の内を明かしても"マジック"が消えない、それがエンターテイメントなんだ。

そういうものに、私は、私たちは成りたい。


アガリスクエンターテイメント第24回公演〜その企画、共謀につき〜


どうぞ、お楽しみに。というか、一緒に楽しみましょう。今回のは、そういうやつです。
posted by 淺越岳人 at 23:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 芝居 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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